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南アルプス:仙丈ヶ岳
南ア・仙丈ヶ岳紀行(7) 「伊那の里」

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 南ア・仙丈ヶ岳紀行(7) 「伊那の里」 



  
 伊那谷から見る「仙丈ヶ岳」の勇姿



伊那谷を南北に走る国道152号線は、杖突街道と秋葉街道を縦貫して通る。 
現在、この国道は途中の地蔵峠・青崩峠(崩壊中)では荒廃していて車は通行出来ないが、(迂回路がある)この南アルプスの山裾の谷間のを走る一本道は、昔の主要幹線道路であった。

戦国時代は武田信玄が京侵出の為の三河攻略の軍用道で、信玄が武田軍3万人を率いて通過したところであった。  信玄はここを越えて浜松付近に下り、迎撃してきた信長・家康連合軍を「三方ヶ原の合戦」で破っている。(信玄はこの戦の後、急死している)

それ以前の南北朝時代には南朝・宗良親王(むねよししんのう;室町初期の時代の皇族で後醍醐天皇の皇子)の南朝方の戦略の道でもあった。
南北朝の戦乱の世、宗良親王は大河原(現、大鹿村)に入り、この地を凡そ30年間にわたり拠点としていた。 その為、宗良親王は「信濃宮」とも呼ばれている。 その間、上野国(群馬県)や武蔵国(東京、埼玉県)にも出陣し、駿河国(静岡県)や甲斐国(山梨県)にも足を運んだという。
拠点となった大河原は伊那谷に位置し、南に下れば東海地方へ北上すると長谷を経由して諏訪や関東へと通じる場所にあり、当時は「南朝の道」とも呼ばれ、後の秋葉街道の中心に位置していた。


国道に沿って、先ず上伊那郡「長谷村」は、甲斐駒ヶ岳,仙丈ヶ岳などの高峰がそびえる東部山岳地帯は南アルプス国立公園に属し、1979年には南アルプススーパー林道も開通している。 その北沢峠を経て南アルプスの甲斐駒、仙丈岳、北岳へ至る登山基地としても知られる。

平家落人の里としても知られ、浦地区は壇ノ浦の戦いに敗れた平家の人が住み着いたため、その名が付いたという。 
「伊那日光」といわれる国の重要文化財に指定されている華麗な「熱田神社」や宇津木薬師如来、又、この地から甲州にかけては道祖神の多いところとして知られている
江戸期に旅芸人が来て上中尾地区にもたらした「中尾歌舞伎」(無形民俗文化財)は、村民一帯となって演じている。


次に、「大鹿村」は南ア・赤石山系の懐深く山また山の村で、今では信号・スキー場・ゴルフ場が一切ないというのが売りらしい。

しかし、昔は信玄道の拠点であり、更にさかのぼって南朝・宗良親王ゆかりの地であった。
更には、平安時代から荘園としても開発されていたらしい。
その為か、古道を通じて都の文化がこの村にも入っていたことが伺われ、自然とおりなす伝統や歴史文化が今も残る。
重要文化財に指定されている長野県最古の木造建築寺院や歌舞伎・人形芝居などが盛んな地域で、その代表が大鹿歌舞伎(県無形民俗文化財)である。
今年(2011年)、大鹿歌舞伎を土台にした映画;「大鹿村騒動記」で一躍、世に知られるようになった。 尚、この映画の企画者で主人公でもあった原田芳雄氏は完成直後、逝去している。


又、信州南端の下伊那郡上村(かみむら)と下伊那郡南信濃村は、天竜川の支流遠山川流域、赤石山脈,伊那山地に挟まれ、秋葉街道沿いの遠山郷と呼ばれるかっての秘境で、江戸時代初期まで遠山氏の領地であった。

江戸時代は遠江の秋葉神社へ参詣する人々の宿場、所謂、参詣道として栄え、こちらも民俗芸能の宝庫で祭事、古来よりの盆踊り(絵島踊り;高遠藩にお預けになった絵島を偲ぶ歌踊り)、民謡など古くから継承された文化、芸能が数多く残されている。


山深い国道152号線、通称、秋葉街道は、南北朝時代における宗良親王の南朝戦略の道、戦国時代の武田信玄の戦の道、塩や物資を運んだ生活の道、今も残る芸能や文化を伝えた伝承の道、そして、民衆の心の拠り所として広く深い信仰のあった信濃・善光寺から、国造りの神を祀る諏訪大社、火伏せの神として広く信仰された秋葉大権現(秋葉神社)を辿る信仰の道でもあった。 


次回、「戸台口




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 南ア・仙丈ヶ岳紀行(8) 「戸台口」  .



さて、伊那北駅で登山者を満載したバスは、高遠を過ぎた辺りでも小雨が間断なく降っていた。

“何とか雨だけは止んでくれ・・!” 
“山道はどんな具合か・・?”

などと思案している間に、すっかり眠りこけてしまったようだ。

そして、周囲がガサバサと騒がしく感じられたときはバスの揺れ、動きも止まっていて、
それもその筈、終着の「戸台口」へ着いていたのである。
夢の中にあった小生も、瞬間的に現実の世界へ戻された。


冷んやりとした山の空気を胸いっぱい吸い込み、戸台へ降り立った。
戸台は、やはり雨だった・・!。
高台の停留所をトコトコ降りていって、大きな沢を一つ渡る。 
これは戸台川の本流とでも言おうか、入笠山を源流とする小黒川であった。

橋を渡った右手に橋本山荘があった。
炊事場からであろう、煙突から細々とではあるが煙がたなびいている。 いかにも我らを歓迎しているようだ。
やはりといっては何だけど、既に外来者向けにも朝食の用意があった。
300円の簡素な食事で、小生も早速戴くことにした。 
特に田舎仕立ての味噌汁は絶品であった。
これからの登行への活を入れるには十二分の量であり、美味しさであった。 


見渡すと向こう側の小黒川は両脇がV状になって、更に山深い感じがする。 
川沿いには意外と思えるほどの立派な林道が延びている。 
おまけに道沿いの谷側には、この林道にはそぐわないほどのコンクリートの頑丈そうな土留め補強壁が施してあり、それに小さな谷間を渡す橋はこれまた鉄橋のよな頑丈で立派な橋が架けられているのである。

聞くところ・・、 
この辺りには戸台集落があって、南アルプス登山口、また、炭焼きや林業などを生業として、昭和38年頃まで立派な集落があったという。
しかし、昭和34年の伊勢湾台風36災害(昭和36年の大雨被害で長野県南部の伊那谷など天竜川流域に氾濫や土砂災害などの甚大な被害が発生、特に下伊那郡大鹿村では、大西山が大崩落して32戸が流失、死者40人、行方不明者15人を出すという大惨事が発生する)などで被害を受けた他、出稼ぎなどで集落を離れる人も多くなり、昭和37年には戸台分校も廃校されて、集落に住む人も次第にいなくなったという。

集落に住んでいた或る人は、「森林鉄道に乗せてもらい通学したことや長い道のりを歩いたことなど思い出がたくさんある」と昔を懐かしんでいる。



【 現在の戸台口とは公営宿舎・「仙流荘」のあるところらしく、伊那村営バスの発着所やマイカーの駐車場になっている。 特に、駐車場は広大で数百台も止まれるほどで、ここから北沢峠方面の公営バスが発着している。 行楽シ−ズンの週末ともなればバス停には行列をなし、仙丈ヶ岳や甲斐駒ヶ岳、鋸岳への登山口へと向かう。 バスは30人ほど乗れるマイクロバスで、積み残しなしで運行する模様。 この戸台口から標高2030mの北沢峠まで約40分、その間、バスの運転手さんは林道に咲いている花や林道から見える滝、山の様子などの説明をしてくれるという。 北沢峠が登山口になるため日帰りで登って来れるし、又、チョット健脚の人は仙丈と甲斐駒と両方登る人も多いという 】


次回、「戸台の集落




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