南ア;鳳凰三山紀行 南ア・鳳凰三山紀行(29) 「ウォルター・ウエストン」 御座石⇒⇒燕頭山⇒鳳凰小屋⇒地蔵岳⇒観音岳⇒薬師岳⇒南御室小屋⇒苺平⇒杖立峠⇒夜叉神峠⇒芦安 |
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南ア・鳳凰三山紀行(29) 「ウォルター・ウエストン」 上高地にあるウエストン・レリーフ 地蔵ケ岳の岩塔は高さは、実は基部から26メートルともいわれる。 甲府からもよく見え地蔵仏、大とんがり、オベリスク、ウエストンピークなどと呼ばれていて、その名の通り山の頂に立つ天然の大仏塔である。 1904(明治37)年7月、イギリスの宣教師ウォルター・ウエストンが初めて頂上に立ったといわれ、その名がついたのであろう。 ウエストンは(1861〜1940)はイギリス人宣教師であり、日本に3度長期滞在した。 日本各地の山に登り『日本アルプスの登山と探検』などを著し、日本アルプスなどの山及び当時の日本の風習を世界中に紹介した登山家でもあり、訪日の前後にはマッターホルンなどのアルプス山脈の山に登頂している。 新婚早々1902年(明35)6月、ロッククライマーのエミリ夫人を伴い再来日し、2年後に夫人と一緒に地蔵岳のオベリスクを登ったといわれる。 1905年3月に帰国するとき、銀行員で山岳随筆家の小島烏水らを晩餐会に招き、欧州各国にあるような登山クラブを日本にも作るように奨め、小島ら7人は同年10月、登山愛好家393人を集めて登山会を設立している。 1909年(明42)に日本登山会と名付けて小島を初代会長に、ウエストンを名誉会員に推戴した。 小島烏水は四国・高松出身の登山家としても知られ、山旅や旅を趣味として「日本風景論を著わし1905年、日本山岳会の初代会長となる。 「日本アルプスの登山と探検」を書いたウォルター・ウエストンとの交流によって、烏水は甲斐の山々に興味を持ったとあり、槍ヶ岳を登った烏水にウェストンは興味を持ち、両者の間で文通が頻繁に行われた。 烏水は、『山岳文学序』の中で、 『今日の苛烈なる戦局下、山川跋渉記の如きは閑文学として憚られる如くであるが、自然の王者としての、山の有つ美しさは、人間性の美しさを、研ぎ出す明鏡ともなる。思うに祖国日本の山々は、今日いよいよ偉大なる親愛の言葉を、南洋東亜の山々の戦士たちにも、遥かに投げかけるであろうし、南洋諸島の何々富士は、本朝の富士山と、母体を同じうする一系統の生い立ちと、普遍性の合い言葉を有しているであろうことを考へれば、此際、山岳文学を講じ、山岳紀行文学を発表することを、あながちはぢるには及ぶまい。』と記している。 2009年に公開された映画・『劒岳 点の記』では、陸軍参謀本部陸地測量部測量隊である柴崎芳太郎の好敵手として描かれている。 1907年(明治40年)、古来から前人未踏の「死の山」といわれてきた北アルプスの名峰・剣岳(2999m)に、不屈の闘志、献身の心、仲間の絆を信じて挑んだ男たちの物語で、山岳小説の創始者ともいわれる新田次郎作品を基に製作された。 しかし実際は、烏水は剣岳へは登頂しておらず、陸地測量部や柴崎芳太郎との交流も無かったのではとされている。 大きな岩が積み重なった中から巨大な2枚の花こう岩が伸び上がっている。 因みに、「オベリスク」(obelisk)とは、 古代エジプトのファラオ(古代エジプト王の称号)が記念碑として作った四角錐の柱塔で、先端はピラミッドの形をしているといわれる。 太陽神の神殿の前に建て、柱面には王の事跡などを記す銘文や図案の刻まれたものも多い。 古代エジプトの作ったものを、ローマ皇帝などがそのレプリカを作ったともいう。 1メートルに満たない小さなものから30メートルを超える大きなものまで,実際多数のオベリスクが作られたが現在,大型で野外に立っているものとしてはエジプト、イタリアをはじめフランス、イギリスなど全部で30数本しか残っていないという。 次回、 「鳳凰山大神」
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