南ア;鳳凰三山紀行 南ア・鳳凰三山紀行(14) 「鳳凰山の名称」 御座石⇒⇒燕頭山⇒鳳凰小屋⇒地蔵岳⇒観音岳⇒薬師岳⇒南御室小屋⇒苺平⇒杖立峠⇒夜叉神峠⇒芦安 |
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(標題はブログにリンクします). 南ア・鳳凰三山紀行(14) 「鳳凰山の名称」 . 鳳凰山には三つの考え方があるとされる。 (1) 地蔵仏ピークを鳳凰山とし、別に地蔵、観音、薬師があるとする鳳凰一山説 (2) 地蔵仏ピークが地蔵ケ岳で、南の2つのピークを鳳凰山とする鳳凰二山説 (3) 地蔵、観音、薬師を総称する鳳凰三山説である。 陸軍・陸地測量部が最高峰の2,840メートルに二等三角点を設置したのは1902(明治35)年で、ここを観音岳とした。 今西錦司(日本の生態学者、文化人類学者、登山家)は、こうした陸地測量部の混乱がそのまま受け継がれ、鳳凰三山説が定着していったと主張した。 近年では、新たな文献や絵図の発見などで一山説が優位になっているという。 しかし三山説があまりにも定着してしまい、山梨百名山を選んだ選定委員会達は、なじみのある鳳凰三山の呼称に準拠しつつも、「鳳凰山」をも大切にした、と曖昧な見解も出している。 「ほうおう」の呼び方は、奈良田に下ってきた孝謙天皇に因み「法王」「法皇」が語源とする説があるが、これは伝説。地蔵仏をくちばし、山稜を羽を広げた鳥に見立てたことや、仏教上の考えから「おおとり」、「鳳凰」になったとする説が有力だとする。 ところで鳳凰とは、古来中国で麒麟、亀、竜と共に四瑞(したん;孟子の教えによる仁・義・礼・智の意味)として尊ばれた想像上の鳥。声は五音にあたり、梧桐に宿り、竹実を食い、醴泉を飲むといい、聖徳の天子の兆として現れると伝え、雄を鳳、雌を凰という。鳳鳥、凰鳥。 長年この山名論争にかかわってきた地元・白鳳会顧問の山寺氏は「さまよえる鳳凰山」という論文を書いている。 『 鳳凰山はさまよっているなと思う。山名がさまよい歩く山。これこそ鳳凰山という名山が名山たる由縁であろう 』と 地蔵ヶ岳の山頂部は地蔵仏(地蔵岳オベリスク)と呼ばれる巨大な尖塔があり、大鳥の嘴(くちばし)に満たれられることから鳳凰の山名由来になっていると考えられている。 地蔵仏はこの山域の象徴的存在で甲府盆地からでもその姿を見ることができる地蔵岳山頂の2個の巨石が相抱くように付き上がっていることから、故人がこれを大日如来に擬して崇拝し鳳凰山の名が付いたことが山名の由来であるとする説もある。 又、757年(天平宝字元年)に、女帝・孝謙天皇(奈良法皇)が転地療養のために奈良田に来て法皇山に登り、その山名が転化して鳳凰山になったとする説もある。 山梨県の西部、甲府盆地の西縁をさえぎるようにそびえる鳳凰山は南アルプスを構成する山塊の一つで、どっしりとした山容は独立峰に近い様相を呈している。 山頂部は北西―南東方向に連なる地蔵ヶ岳(2764メートル)・観音ヶ岳(2841メートル)・薬師ヶ岳(2780メートル)の三峰に分かれていて、現在では鳳凰三山という呼称が広く用いられている。 江戸時代の中期からは地蔵仏の信仰が盛んになり、この巨石も地蔵仏となり麓の賽の河原には、信仰登山者が持ち込んだ地蔵仏像が多数供えてある。 山体は花崗岩質からなり、所々で巨岩が露出、とくに地蔵ヶ岳山頂の高さ60メートルほどの岩峰は、その特異な姿が山麓からも望見され、当山のトレードマークとなっている。 大日岩・地蔵仏、あるいは地蔵のオベリスクとよばれるこの岩に明治37年(1904年)日本アルプスの紹介者として知られる英国人ウォルター・ウェストンが初登攀し、日本における近代アルピニズムの幕が開けられたという。 次回、 「御座石の由来」
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